1989年

2008年3月 9日 (日)

思考のポイエーシス1989年12月

3
「理論や学説のはいっている作品は、正札のとれていない品物である。」(マルセル・プルースト『失なわれた時を求めて』)
 理論や学説を究めること、そしてそれが語りえないもののむこうへ突き抜けること。それが詩を書く唯一の目標であり根拠である。(1989. 12. 3)

4
「パランプセスト」というのは何度でも書き直しのできる羊皮紙のことを言うが、ジェラール・ジュネットはプルーストの小説空間をこの何度も書き直しができ、消し残された部分があらたに書かれた部分のしたに透かして見えるような紙に擬している。千葉文夫によれば、プルーストの小説空間を〈パランプセスト〉のイメージでとらえたのはジュネットの創見であり、それはジュネットにとって文学空間そのものであると言うが(「無限にして、しかも閉ざされた空間」、「早稲田文学」一九八九年十一月号)、わたしも同感である。という以上に、文学の世界とは、すくなくとも書き手にとってはつねに〈パランプセスト〉であるのではなかろうか。
 書くことが話すことと決定的にちがう点は、いつでも時間を遡及できること、つまり以前に書いたものを消して書き直すことができるということにある。話すことがリニアーな時間の経験であるのにくらべて、書くことは時間を複層化することができるのであって、それは読むことにおいても同じである。ひとは書くことにおいても読むことにおいても、時間のリニアーな流れをたえず反転させ増幅させることができる。文章はたしかにリニアーな流れを作るが、この流れを堰きとめ、たえずもうひとつの時間を想起させること、あるいは時間そのものの無化へとむかわせること──つまりはテクストの絶対性と全体性を確立しようともくろむこと──文学の究極の目的とはこのようなものなのではなかろうか。〈パランプセスト〉とは文学のもつこの永遠の夢の形象化されたものなのではなかろうか。(1989. 12. 3)

5
「作品とは、もっとも基本的なディスクールとともに、ひとつの意味の最初の分節とともに、_¨文章¨_(phrase)とともに、〈このようなもの〉のはじめの統辞上の切り口とともにはじまる。というのは、文章をつくることは、ひとつの可能な意味を_¨表示する¨_(manifester)ことだからである。文章は本質的に正常なものである。文章はそれじたい正常性、つまり_¨意味¨_〔_¨方向¨_〕──このことばのあらゆる意味における意味、とりわけデカルトのいう意味──を有している。文章はそれじたいで正常性と意味を有しており、それを述べる人の、あるいはその人によって文章が通過したり、そこで〔そのうえで、またそのなかで〕文章が分節化されるような人の、状態や健康や狂気にかかわりはしないのである。もっとも貧弱な構文にあってさえロゴスは理性であり、すでに歴史的な理性なのである。」(ジャック・デリダ「コギトと狂気の歴史」、『エクリチュールと差異』所収、傍点―原文イタリック)
 ここでデリダは後年のロゴサントリスム批判の立場からすれば意外なほど素朴にもロゴスの自立性と絶対性を賞揚しているように見える。しかしここでは、書くこと自体の、意味を生産する必然的な構造をデリダが自立的なものとして肯定していることだけを確認しておくだけにしよう。文章を書くことが意味の生成の可能性を前提としてしかはじまることがないというのは、デリダにとっても、ものを書くことのもっとも始源的な前提であったのにちがいない。その意味ではデカルトのコギトの問題設定は決定的であった。「わたしが気狂いであろうとなかろうと、Cogito, sum〔わたしは考える、わたしは存在する〕である」とデリダは書く。こう書くことによって、書くことと存在することがデカルト的な論理的連続性としてではなく、論理的同時性であり同一性でもあるという視点がくりこまれたのである。そこにミシェル・フーコーの歴史記述を批判的に検討しながら、書くことの根底をめぐってデリダがデカルト的思考を脱構築しえた転回点が見出せるのだと考えてよい。(1989. 12. 6)

6
《レヴィナスは、ハイデガーの言う「差異」のみならず、それを批判的に継承したデリダの「差延」をも暗に批判しようとしていたと考えられる。たしかに、「差延」は「存在論的差異」よりも古く、「存在論的差異」以上に忘却された「差異化する差異」である。》(合田正人「果てなきパリノーディア──レヴィナスにおける言語の陰謀」「季刊iichiko」13号)
 デリダのレヴィナス批判「暴力と形而上学──エマニュエル・レヴィナスの思想についてのエッセイ」(『エクリチュールと差異』所収)を検討すること。(1989. 12. 14)

7
「人は書物のなかにおいてしか書物の外へ出ることはない。なぜならジャベスにとって、書物は世界のなかになく、世界が書物のなかにあるからだ。(中略)存在するとは書物-内-存在することである。」(ジャック・デリダ「エドモン・ジャベスと書物の問い」、『エクリチュールと差異』所収)
 ここでデリダは、言うまでもなくハイデガー的な存在論を転倒させたかたちでエドモン・ジャベスの詩の世界をとらえようとしている。だが本質的に考えれば、人が詩人であるとは、多かれ少なかれ、こうした書物と世界との内包・外延関係の逆転をあたかも自明の前提として生きているはずである。〈書物-内-存在〉をもっとつきすすめれば〈エクリチュール-内-存在〉という存在のありかたさえも考えることができる。この様態についてもっと考察すること。(1989. 12. 17)

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思考のポイエーシス1989年11月

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 このノートのコンセプト。
 思考をできるだけ解放すること。
 テーマをあらかじめ立てずに、思考のおもむくがままにすること。
 できれば具体的なテクストのもとに、その引用、解釈、およびそれに触発された思考を展開すること。
 構成や文体は当面考えないが、一定の期間をおいたのちの事後的な編集(再構成)は明確な意図をもってすること。
 この思考の痕跡を記録すること。原則的には公表を前提としないが、もし公表するときはこのままのかたちをとることが望ましい。項目ごとに書かれた日付を入れておくこと。(1989. 11. 13)
[00~30, 32~34, 38~40=野沢啓「思考のポイエーシス(1)」として「走都」19号(1990. 7)に掲載]

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「もし哲学が他の専門科学と異なるところがあるとすれば、哲学ではいかなる小部分においても、必ずその存在の全体を洞察するという点である。」(カール・レーヴィット「歴史と歴史意識」、『歴史の意味』所収)
 すぐれた哲学、あるいはことばの真正な意味での哲学は、世界に生起するあらゆる事象について、いつでもすでに一度はその考察の対象にしたことがあり、その事象に明確な規定を与えたことがある、というふうに存在する。事実はそうでなくとも、そのようなことを可能にする構想力と論理的展開力を哲学はもたねばならない。そうした印象を与える哲学者はたしかに現代でも存在する──ごく稀にではあるが。(1989. 11. 20)

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