思考のポイエーシス194:鮎川信夫論をいまどう書くか

 鮎川信夫論をいまどう書くか。辻井喬は『鮎川信夫全集II 評論I』の解説「鮎川信夫のトポス」の最後のところで、「鮎川信夫の仕事に共感を覚えることの多かった」自分が解説を書き進めるなかで「いつの間にか、かなり厳しい筆を進めたことに気付く」と書いている。鮎川信夫とはひとまわりほどの差があるとはいえ、わたしなどよりははるかに同時代人として現代詩の世界にかかわる時間の長かった辻井にして、やはりこのような感慨をもつのかということにわたしは妙に納得する。
 もちろんそこには六〇年安保をめぐってほとんど敵対的な思想的立場にあったこともあるかもしれないが、それ以上に、鮎川とは辻井の世代――六〇年代詩人と言い換えてもよい――でさえも、もともと相当に異和感のある存在だったということである。若き大岡信が鮎川にたいしてはめずらしく相当に戦闘的な批判的論陣を張っていたことは印象的である。
 辻井はこの解説で鮎川を「我国の現代詩の負の宿命を生きた存在だった」と規定したあとで、鮎川の戦後の詩的(再)出発をこんなふうに書いている。
《そこには、伝統と断絶することによって不毛とならざるを得なかった構造があった。西欧的知を先取りすることによって詩の方法が根拠地を離れて多様化する宿命があった。こうした特質に抗して詩人であり続けるためには、生き方を探求し倫理性を支えとしなければならない土壌が生れていた。鮎川信夫は、このいずれをも全身に引受けて生きた詩人であったから、彼の仕事に共感することは、我国の詩の運命に共感することであり、反撥はこのアプリオリに見える自己〔ママ〕撞着から脱出しようとする心情に通じているように思われる。》
 つまり日本現代詩の戦後的出発時点における脱モダニズム、脱四季派的抒情性から〈意味〉の回復=思想性の獲得をもとめて西欧に範をとって再出発を意図した鮎川信夫をはじめとする「荒地」派詩人たちの世代が戦争体験をひきずらざるをえなかったのにひきかえ、大岡や辻井の世代はその体験の負荷を負うことなくみずからの詩人としての出発をはたすことができたということである。辻井はそのことを「モダニズムを表現技法のひとつとして理解せざるを得なかった、敗戦前の体験を持っていた誠実な詩人達の一群と、戦争の傷跡を精神の深部においては受けず、その意味で、『生き残った人間』、『戦死』の観念からも自由であり得た、そして感受性を自由に開花させうる時代に詩人としての出発をした青年達との著しい対照が見られる」(同前)と指摘している。
 この解説がほぼ二〇年前に書かれたことを勘案しても、いまなおこの戦争体験の有無の差のもつ意味はあらためて吟味されていい。わたしのように戦後生まれであれば、体験の有無もなにもあったものではないが、それ以上にいまの若い詩人たちにとっては問題の所在さえ意味がないかのように見えてしまうかもしれない。しかし戦争および戦時下という非日常的かつ苛酷な体験の意味を問わずにいま現在の詩の問題を論ずることは不毛である。たしかに体験の深度というものは戦争以外にもいろいろありうるし、それがたとえ個人的なものにすぎないとしても、それを〈戦争〉のように一般化できないだけのことで当事者にとっては生死にかかわる重大な意味をもつことはありうるから、戦争体験だけが特別だというわけではない。しかし個々の人間にとってのそれぞれの固有性を超えて歴史的な一般性として存在したこの問題をたんに過ぎ去ったものとして葬るわけにはいかない。ただここではあまり問題を拡散しないために鮎川信夫に固有の問題に限定しておくだけのことだ。
 ここでわたしが問題にしようとするのは、わたしにとって鮎川信夫のかかえた〈戦争〉の問題がどこに起点をもち、それが戦後の鮎川の仕事のなかにどのような展開と帰結をもたらしたのかということにつきる。それが詩を書きはじめた時点から鮎川信夫の詩と詩論に大きな影響を受けてきたはずの自分の位置を再確認するためにどうしても避けて通ることのできない問題だと思うからである。(2015/12/19)

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