2─1 鮎川信夫という方法:モダニズムから意味の回復へ(1)

 わたしはすでに「現代詩手帖」二〇一六年四月号から八月号まで五回にわたって連載〈鮎川信夫とは誰か〉という文章を発表した。これはいま、この時代にあらためて鮎川信夫という詩人を理解するためには最小限の了解事項を明らかにしておきたい、という念願のもとに発想されたものであり、鮎川没後のさまざまな新しい情報――主として詩人の秘められた知られざる私的生活にかんするもの――をもとに、詩人の伝記的側面を洗い直すことによって、鮎川という詩人像の歪みや一面性を_¨正そう¨_という野心をもつものであった。いわば、鮎川信夫の神格化を解体し(鮎川自身のことばを使えば〈神話はがし〉)、その一方で、この詩人の政治的立場にたいする無用な反発を斥けるためでもあった。この方法が、一部の初期作品を除いて、鮎川の詩そのものを直接的にはあまり論じていないのも、とりあえずそうした側面をきちんと把握しておく必要があると感じたからである。もちろん、この暫定的な見取り図は今後の論述の展開を経て修正されていくところもあるだろうが、まずはひととおり論じ尽くされた感のある鮎川信夫という詩人を対象として論じていくためには、そうした手続きが必要だと思われたのである。
 そして断わるまでもなく、いまごろ鮎川信夫を論ずるのは詩人論それ自体に自足するのではなく、ありうべき現代の詩を模索するためでもある。「現代詩手帖」連載時においてもどれだけのひとが読んでくれたか知らないが、鮎川はいまそれほど関心をもたれているとは思えない。それほどにも現代詩人たちは視野が狭く、他者はむろんのこと、詩の歴史的地平への関心もなくなっているように見えてしかたがない。アドルノの言ではないが、「独り合点にあぐらをかいているために生ずるような種類の難解さ」(『ミニマ・モラリア――傷ついた生活裡の省察』一一七ページ)ばかりが目につく昨今の現代詩を鮎川信夫というフィルターを通して洗い直してみたいというのが、ほんとうの目的なのかもしれない。
 (というわけで以下では、雑誌掲載時のような時間的・分量的制約にとらわれずに論を進めていきたい。)
(2017/1/4、1/5加筆)

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